アサヒの人:骨のがんに勝った元アメフト日本代表、次の挑戦へ
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アサヒグループでは、現役時代に第一線で活躍していたアスリートが多数働いています。今回紹介するのは、その中の一人。アサヒグループ食品、物流部の大森優斗です。大森はアメリカンフットボールの日本代表としても戦った選手でしたが、突然骨肉腫を発症。引退を余儀なくされますが、大病を乗り越えた現在、新たなフィールドで奮闘しています。そんな大森のこれまでの歩みと、次なる挑戦について聞きました。
高校からアメリカンフットボールをはじめ、大学時代は全国3連覇。卒業後の2014年にアサヒビールシルバースターに入団。ディフェンスバックとして活躍し、翌年は日本代表に選出。しかし、2016年に骨のがん「骨肉腫」と診断され、手術と治療により回復するも現役は引退しコーチに。現在はアサヒグループ食品で物流のセクションを担う。
INDEX
絶頂期に突然訪れた違和感
高校からアメリカンフットボールを始めた大森の父親もアメリカンフットボールの経験者。ただ、大森自身はルールすら知らなかったとか。では、はじめたきっかけは? と聞くと「巡り合わせだったのかもしれないです」と振り返ります。
「中学まではごく普通のサッカー少年でした。でも漠然と、スポーツで何かを成し遂げたいという憧れは持っていましたね。そのまま高校へ進学したところ、実はその学校が前年にアメフトで全国2位だったことを知ったんです。未知の世界でしたが『ここなら自分も全国大会で活躍できるかも』と思い、入部しました」
もともと俊足が武器だった大森は、めきめきと頭角を現してエースに。スポーツ推薦で進学した関西学院大学では、2、3、4年生時に全国3連覇を果たします。加えてアンダー23の枠で、日本代表として世界選手権に出場。
卒業後の2014年には、社会人アメリカンフットボール「Xリーグ」のアサヒビールシルバースターへ入団し、2015年は「オールXリーグ」に選ばれ日本代表チームで活躍しました。そしてさらなる期待を受け、次のシーズン前には副キャプテンに指名される。しかし2015年シーズンが終わった11月末、右ひざに違和感を覚えるようになったのです。
「実は、学生時代に同じ右ひざの前十字靭帯(ぜんじゅうじじんたい)断裂という大ケガを経験し、8カ月休んだことがありまして、最初はその後遺症かなと思っていたんです。こうした痛みは次第に治まることもよくあるんですが、このときはどんどん悪化。年が明けた2016年になっても酷さ増していたので、チームドクターに相談したところ、とんでもない事態が待ってました・・・・・・」
絶望。しかし「生きててよかった!」
レントゲン検査をすると、ひざ関節部分に濃く白い影が。応対した医師はさらなる検査を薦め、より専門的な施設への紹介状を書いてくれました。そこには、「がん研有明病院」の文字。大森はこのときに、自らの病名をなんとなく自覚したといいます。
「自分の想像していた症状と違うなって、ドキドキした記憶があります。でもそれと同じくらい、焦りもありました。来シーズンはチームを引っ張っていこうと、やる気満々でしたからね。しかも、この病院は全国から患者が殺到するので、診察予約がなかなか取れなかったのです。結果、検査のための手術を2月下旬に全身麻酔で行い、目が覚めると父から悪性腫瘍の骨肉腫だったことを告げられました。病名はもちろんアメフトのこともあり、やっぱりショックでしたね」
そこからは、怒涛の治療ラッシュ。大森の場合は抗がん薬を1カ月に1クール、それを3カ月ほど続けて腫瘍を小さくしてから手術する治療方針がとられ、病状判明の数日後には最初の投薬が行われました。
「脱毛、吐き気、耳鳴り、発疹など、抗がん剤治療にはいくつかの副作用があることが知られていて、でも個人差があるんです。ただ、僕の場合は全部出ました。特にキツかったのは味覚障害です。食欲不振なうえ、食べても味がしないのは正直地獄でしたね」
苦しい日々でも経過が順調なことを聞いて耐え、予定通りに3カ月後の5月に手術。ただしそれは人工関節に置き換える手術であり、選手生命を絶たれる行為でした。
「最初の検査時点で、ある程度の覚悟はしていました。そのうえで先生に聞いたら、人工関節になった場合は100%の力でスポーツをすることは不可能だと。それはつまり、現役復帰が絶望的であることを意味します。ただそれでも俯瞰して見れば僕は生きながらえましたし、幸運だったと思います」
骨肉腫は名称こそ有名ですが、日本での年間発症は200〜300人ほどと希少。また、10〜20代の若年層の膝や肩に発生することが多く、5年生存率は70%。それでも一昔前の5年生存率は30%で、手足を切断しなければならない例も珍しくないがんでした。
当時24歳だった大森のステージは1と2の間にあたり、早期発見で転移もなし。治療によって高確率で完治が期待できるケースでしたが、「あと10年早く発症していたら、僕はここにいなかったかもしれません」と吐露します。
闘病中の憂鬱を救った先輩サバイバー
術後には、大森の新たな戦いが待っていました。それは人工関節でも歩けるように慣らすリハビリと、再発のリスクを減らすための抗がん薬治療です。
「リハビリは前半が最もキツかったです。足が地面に触れている感覚が全然つかめなくて、体重をかけると激痛が走るという。徐々に慣れていきましたが、2017年1月に職場復帰した当初も杖を使っていました。杖なしで歩けるようになったのは、リハビリ開始から約1年経ってからです」
再度の抗がん薬治療は目的が術前とは違うものの、倍となる半年間の投薬。期間の長さや耐えがたい症状のつらさも身に染みていた大森ですが、それ以上に“効果の見えないもどかしさ”がメンタル的にこたえたとか。
「手術前の抗がん薬は腫瘍を小さくするなど効果がありますが、術後のそれは予防のようなもの。それでいて、あのしんどい状態が半年続くわけで、しかも思うように歩けない。正直、鬱になりかけていたと思います」
そんなある日、大森の光となる存在が現れました。Jリーグの大宮アルディージャで活躍した塚本泰史選手です。塚本選手はプロ入り3年目の2010年に右大腿骨骨肉腫を発症。大森は骨肉腫のサバイバー情報を探す中、塚本選手を知り『もう一度プロサッカー選手になる』という前向きな姿勢に感化され、自らも新たな挑戦をはじめたのです。
「塚本さんは手術後に東京マラソンで走ったり、富士山に登ったり、とにかくすごい方。そんなある日、僕の担当トレーナーが塚本さんとつながりがあって会わせてくれたんです。そのときに『僕も富士山に登りたいです』と会話したことがきっかけで、新たな目標ができました」
富士山登頂は塚本選手も同行してくれることとなり、出会いの数カ月後となる2017年8月に決定。こうして成功へのプロセスができたことで大森の気持ちも一新し、リハビリの回復スピードも好調に。登山では悪天候など苦難が続くも、山頂ではご来光を拝める大歓喜を体験。
加えてもうひとつ、闘病中の大森を救ったのが知人からのエールでした。
「手術後すぐの話ですけど、麻酔から目覚めたらメールやメッセージの着信音が鳴りまくってたんですね。何かと思ったら励ましの声だったんですけど、チームメイトなど限られた人にしか伝えていなかったので、『なんで知ってんの?』と。犯人は僕の病状をSNSで公開した父親でした。最初はムッとしたんですけど、自分が思った以上に激励や応援メッセージが届き、辛い治療を乗り越える力になりましたね」
「学生チームのコーチに興味があります!」
職場復帰しチームに戻った大森は、コーチとして再出発。そこでは、改めて指導者と選手との違いを痛感したといいます。
「自分なら当たり前にできることを、できない選手がいることを知りました。向き不向きもありますし、それは教え方も同様。選手ごとに適した指導法や、接し方、話し方があることも学びました」
コーチとしての仕事は、当初は自身のポジションだったディフェンスバックの技術を教える役割から、ディフェンス全般を指導する立場に。アメリカンフットボールがコンタクトスポーツであることを実感するとともに、ロジカルな戦略や選手のメンタルケアまで考えるようになったといいます。そして現在は、アサヒグループ食品の物流部で活躍。
「僕の仕事は大きく二つ。一つは、お客さまの注文をいかに効率的かつスピーディーに届けるために手配すること。もう一つは、より効率的に運用するための仕組みをつくることですね。去年は2024年問題が話題となりましたが、2025年も課題はあるので、気を引き締めていきます」
アサヒグループに入社して、2025年で13年。常に挑戦の連続だった大森に、勝つために大切だと思うこと、心がけるべきことを聞きました。
「どれだけ小さくてもいいので、『これだけは絶対やるんだ』という明確な目標を決めることですね。僕がそうでしたが、プロセスをイメージできますし、成し遂げるモチベーションにもなりますから。この考えは富士山登頂の際にも痛感しましたし、スポーツでも仕事でも、共通すると思います」
では最後に、大森自身の次の「挑戦」は?
「コーチは2024年の4月でいったん退任となりましたが、アメフトに関してはまた指導者として携わりたいと思っています。実業団もいいですが、それ以上に学生チームのコーチをやりたいですね。今、子どもが3歳なんですけど、どんどん教育に興味が沸いています。もちろんアサヒグループ食品の仕事も、さらなる高い目標を掲げて挑戦していきますよ!」
アメリカンフットボールで数々の“タッチダウン”を決めてきた大森。今後も新たなフィールドで挑戦し続ける人生は続きます。
text・photos 中山 秀明